DOGTOWN & Z-BOYS

ゼットボーイズと読んで馬鹿にされました。
どうもこんにちわ。綱街です。

今日は面白い記事を発見したのでご紹介します。
社会学者 宮台真司という人がドッグタウンについて語ってます。

以下抜粋です。

宮台 デビッド・フィンチャー製作総指揮の『ロード・オブ・ドッグタウン』という実話ベースの映画がある。三〇年ぐらい前に、スケートボードの基本的な技術をすべて編み出した四、五人の少年たちがいました。アメリカは西海岸のベニスという貧しいさびれた町の下層階級の連中です。夏休みにバカンスで留守になった金持ちの家に忍び込んで、水のないプールのなかで、いろんなスケボーの技術を編み出していき、それを世界に広げていった。
 対照的な三人の少年が出てきます。サーファーから分派したこの連中は基本的に全員〈世界〉と接触できる連中です。そうじゃないと「限界を超えて」サーフィンやボードができない。彼らは死を怖れる普通の人間にはできないことをやる。なぜか。「限界を超える」ことの快楽があるからです。まずトニーという少年。三人の中で最も優れたスケーターです。彼に注目してカネを出そうとする資本が群がります。ボードやウエアの広告に出ろ、雑誌の表紙に出ろ、という具合に。トニーはそれに迎合し、億万長者になります。対照的なのがジェイ。優秀なボーダーだったけど、資本への迎合を不純だとして一切拒絶します。スケボーに酔うのは〈世界〉の原理であって〈社会〉の原理じゃないと。でも最終的には食えなくてストリートギャングになっていく(笑)。
 この二人を観察するスペイシー・ペラルタという少年がいます。彼はジェイとトニーの間で揺れる。最初はジェイのように拒絶するけど、途中からトニーのようにスポンサーシップを得て雑誌の表紙を飾る。そのペラルタが長じて、4年前『DOGTOWN & Z-BOYS』というドキュメンタリー映画を作り、今回は脚本を提供して『ロード・オブ・ドッグタウン』という劇映画ができました。両作品に共通して"〈世界〉に接触できる人間が〈社会〉で金持ちになったりウマク生きるために他人の操縦に憂き身をやつすのは、不純か"って問いがある。娯楽映画なんで、最後は"〈世界〉に接触するという共通体験を持つ仲間じゃないか"と、唐突にユニティ(統一性)が実現し、問いは答えられずに終わるわけです。

ようは、
〈社会〉で金持ちになったりウマク生きるために他人の操縦に憂き身をやつすのは、不純か"って問いがある。って部分。

言い換えると、「お前は武士なの?漢なの?」ってことなんだと思うけど、
Z-BOYSとかで言われても、その葛藤のレベルが高すぎて、もう良くわかんない。




だから何が言いたいかってゆうとさ、ようやく50間際でブレイクし、ブレイクするまで全くぶれなかった、越中は漢ってこと。



ちゃお!
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